丸山ワクチンと癌治療
丸山ワクチンとは
丸山ワクチンは、1944年に皮膚結核の治療薬として誕生した医薬品。発明者「丸山千里」(1901-1992)日本医科大学名誉教授の名前から後に「丸山ワクチン」と呼ばれるようになった。このワクチンは、ドイツのロベルト・コッホが1890年に発明したヒト型結核菌製剤ツベルクリンにヒントを得ている。
昭和40年代以降、がんの特効薬との噂が一気に高まり、医薬品の承認の手続きより世論が先行することになってしまった。支持者による嘆願署名運動などが行われ、国会でも医薬品として扱うよう要請されたが、今日においてもその薬効の証明の目処は立っておらず、医薬品として承認されるには至っていない。
>>日本医科大学付属病院ワクチン療法研究施設「丸山ワクチオフィシャルサイト」
丸山ワクチンはなぜ「認可」されなかったのか。
<置き去り20世紀の奇談-週刊新潮2001.> 「間違いなく効くね。ただどうして効くのかと、言われてもみんな生きている。がんは残っているが元気だ、としか言えないんだ」 東大法学部名誉教授の篠原(75)が、膀胱ガンを宣告されたのは、昭和48年、48才の時だった。切除手術を受け、放射線治療の苦しみとガン再発の恐怖の中ですがったのが丸山ワクチンである。以来、25年間、ワクチンを打ち続けており、再発がないまま今日に至っている。篠原は、丸山ワクチン患者家族の会代表でもある。 丸山ワクチンは、平成4年、90歳で亡くなった丸山千里、日本医科大学名誉教授が作り出したガン治療薬、戦時中、皮膚結核の治療用ワクチンを開発した丸山が戦後、結核患者にはガンが少ない、ことに気付き、丸山ワクチンの研究開発に乗り出したエピソードはあまりにも有名である。 昭和39年に投与が始まって以来、これまで丸山ワクチンを使用した患者は35万人にのぼり、現在も年6,000人近い新規患者が、投与を始めている。 東京千駄木にある日本医科大学ワクチン療法研究施設を訪ねると、それこそ頬をつねりたくなる「奇跡の体験談」がごろごろ転がっている。たとえば、横浜在中の男性(70)の話はこんな具合。 篠原はこんな話を披露する。「最近、末期で丸山ワクチンだけで治癒した有名人というと、平成10年に亡くなった安東民衛(戦後革新勢力の指導者、享年70)だね、最初は食道ガンでね、当初は完全にとったから、大丈夫ということだったけど、暫くしたら肺に転移していることがわかった。それで抗ガン剤を打つとなったら、安東は、絶対イヤだ、丸山ワクチン一本でいく、と。すると医者は、まあ、この体では来年の桜は見られませんな、と言ったらしい。安東は結局2回、桜を見ましたよ。“ざまあみろ、おれは桜を見ているよ”と笑っていた」 最後まで痛みはなく、散歩に出かけたり、篠原とビールを飲んだりしていたという。 ところが周知の通り、この丸山ワクチンは、まだ厚生省の認可が下りず使用の際は、煩雑な手続きを強いられることになる。まず投与を希望する患者とその家族は担当主治医に「承諾書」を書いてもらったうえで日本医科大を訪ね、レクチャーを受けて丸山ワクチンを購入(40日分9,000円)主治医の元へ持ち帰り、ここでやっと注射してもらうことが可能になる。昭和56年12月より、2回目以降の丸山ワクチンの郵送が認められたが、それまでは丸山ワクチンの購入のつど、直接日本医科大に出向いて長蛇の列に並ばねばならないという、不認可薬ゆえの苦労を強いられていた。それでもワラにもすがる思いの患者は、日本全国はもちろんのこと、海外からも日本医科大へと集まった。 丸山ワクチンは有償治療薬という摩訶不思議な名称のもと、例外的に投与を認められた、世界で最も有名なガン治療薬なのである。 では、丸山ワクチンは何故、認可されなかったのか?その背景を探ってゆくと、医学界の想像を絶する権威主義と、薬品メーカーを巻き込んだ利権争いの構図が見えてくる。 (医学界のドンの反発) 昭和51年、丸山は製造認可を申請するが、56年、厚生大臣の諮問機関である中央薬事審議会は「有効性を確認できない」と不認可に、ただし厚生省は「引き続き研究する必要がある」とし、治療薬として全額自己負担なら購入可とする、玉虫色の判断を下す。ここから丸山ワクチンの先の見えない迷走が始まった。 この露骨な丸山ワクチン潰しの陰には、ある男の意向があった、と囁かれている。医学界のドンと呼ばれた山村雄一・元大阪大学総長(平成2年没、享年71)である。当時、取材にあたった新聞記者が明かす。「山村先生は免疫学の第一人者で、牛型結核菌のワクチンでガン治療をやっていた。ところが、牛型結核菌というのは副作用を取り除く技術がなかなか確立できない。それで丸山先生に、人型結核菌から副作用を取り除いた技術をどうやって開発したのか、教えろ、とかなり高圧的に迫った」 昭和51年、丸山が製造認可を申請する数カ月前のことだった。当時の丸山の反応を長男の丸山茂雄(59、ソニーミュージックエンターテインメント副社長)はこう記憶している。「親父は断ったんです。そのときは。そんなばかなことができるわけないじゃないか。というような反応でした。」長野県生まれの丸山は、幼い頃から病弱で、とても30歳までは生きられない。と言われたほど。 大正11年、のち日本医科大学となる日本医学専門学校の予科に入学し、卒業後は大学に残って研究ひとすじの生活で、権威とはまったく無縁の人生だったという。 この温厚で生真面目な丸山が、唯一、激情を発露させた時期がある。昭和25年、日本医大と早稲田大学の合併問題が持ち上がった時だ。日頃は無口な丸山が、学生を前に、「日本医大がこのまま医科大学であるなら、いつまでたっても東大の支配から抜けだせないだろう」と、演説までブッっている。周囲も驚いたこの変貌の裏には、妻の父親が早稲田に野球部を創設した安部で、岳父の影響を強く受けた丸山が強烈な早稲田ファン、という事情もあったらしい。しかし、合併は敢え無く頓挫し、推進派の急先鋒だった丸山は当時の大学に睨まれ、以後、冷遇されることになる。給料もボーナスも大幅にカットされ、長女が通う都立大学の月謝も滞るという困窮生活も経験している。 一方、山村雄一は、丸山とは対極の人生を歩んだ。昭和16年に大阪大学医学部を卒業すると海軍の軍医となり、激戦地となったガダルカナルにまで赴いている。戦後、九州大学医学部教授を経て、母校大阪大学に戻るや、トントン拍子に出世し、昭和42年に医学部長、54年には大学総長の地位まで昇り詰めた。総長時代は、「アメリカのスタンフォード大学のように広大な医学部にせなあかん」と北千里に広大な土地を購入し、医学部、工学部などを一挙に移転させるというビッグプロジェクトを成し遂げている。学外では、日本免疫学会会長、日本癌学会会長等を歴任し、昭和61年に学士院賞を受賞、63年には文化功労者にも選ばれ、まさに栄光と名声に彩られた学者人生だった。 この挫折知らずのエリート学者に唯一、屈辱を味わわせた人物が、『東大の植民地』日本医大の無名の医者、丸山だったわけだ。当時、取材に赴いたジャーナリストは、山村が、さも憎々しげに「皮膚科出身の丸山が、人類を危機に陥れるガンという病気に果敢に挑まれているようだが、けしからん」と言い放つのを耳にしている。 (凄まじいアラ探し) 当時の中央薬事審議会のメンバー、古江尚、帝京大学名誉教授(74)は、丸山ワクチン反対派の頭と言われた人物だが、「なにも闇雲に反対していたわけではない」と言う。「わたしは悪者にされていましたけれど、データ不足を解決できれば認可しよう、という立場でした。薬事審議会でわたしが問題にしたのは、製剤以前の問題。つまり、常に同じものが使われなければならないし、検証しなければならない。その方法がまだ未解決であったこと」そして、もうひとつが、丸山ワクチンの独特の投与の仕方、濃いA液と薄いB液を交互に打つ、という投与方法だった。「ABABという投与の仕方が全然検証を経ていないし、データも無い。ただ単に丸山先生が経験上、これが一番良い、と言うだけだった。なぜ、ABABなのか、という科学的証拠がなかった」 もっとも、大規模な臨床試験を行った学者はいた。後藤、東北大学名誉教授(75)である。確実な効果が出ていたにも関わらず、審議会はことごとく無視したという。後藤が、怒りもあらわにこう言う。「初めから、これは潰そうという話しですからね。このデータは嘘ではないか。とまで言っているんだな。先生が臨床した膀胱がんの患者は慢性**の誤診でしょう、と。こんなふざけた話はないから、調査会に異議申し入れ書を送りましたよ」 審議会内部の反応について、古江がこんなショッキングな証言をする。 臨床実験のデータを無視された後藤が言う。 (巧妙に仕組まれた罠) 「丸山ワクチンの患者の一覧表があるんです。日本医大の名誉教授のロッカーにカギをかけてしまってあるんですが、分厚いやつでね。丸山先生は、自分が死んだら、その一覧表をぼくにくれる、と言っていたんだけど、まだ生きておられる時にちらっと見たことがある。ずいぶん有名人もいたんですよ。政治家とか芸能人とかね。その中で一番多いのは東大の医者たちですよ。猛反対していた学会主流派の東大です。あれだけ反対していたのに、最後は丸山ワクチンに頼ったんですね。丸山先生が東大でワクチンを開発してたら、間違いなく認可されていただろう。という話は何度も聞いたね」 もし、認可されていたら、製薬メーカーには莫大なカネが転がり込むことになる。一般的に抗癌剤は「がんには効かないが、株には抜群に効く」と揶揄されるほどで、それが注目を集めている丸山ワクチンなら、歴史的なヒット商品となったのは間違いない。 昭和50年から51年にかけて、認可された2つの抗癌剤のケースを見ると、それがどんなにボロい商売かが分かる。「中外製薬」が開発販売した注射薬の「ピシバニール」と「呉羽化学工業」が開発し「三共」が販売した粉末薬の「クレスチン」である。 ともかく、ピシバニールとクレスチンの売れ方や凄まじく、発売10数年間で1兆円を上回る売り上げを記録、なかでもサルノコシカケの培養菌糸から抽出したクレスチンに至っては副作用が皆無で、しかも内服薬という利便性もあり、57年には年間売り上げが500億円と、全医薬品中の第1位に躍り出た。しかも、トップの座を62年まで6年間も譲らず、日本の医薬品史上、最大のヒット商品となっている。 ところが、平成元年12月、厚生省はこの2つの抗癌剤について、「効能限定」の答申を出した。つまり、単独使用による効果が認められないので、化学療法剤との併用に限定するというもの、要するに「効果なし」というわけだ。 がんに効くと、もてはやしておきながら、一転、効果なし、ではガン患者も家族も死んでも死にきれない。患者の命を無視した国と製薬業界のあり方に、国公立、大手民間など約2,330病院が加盟する最有力の病院団体「日本病院会」は激しく抗議。「これまで両剤に投じられた1兆円にのぼる医療費は無駄使いだったことになり、死亡したガン患者や家族、さらに健康保険財政に大きな損害を与えた」と厚生省と日本製薬団体連合会を非難している。 1兆円もの医療費を、詐欺同然に巻き上げてしまった。その無茶苦茶なやり方には呆れるほかないが、一連の騒動を細かく検証してゆくと、丸山を嫌い、認可を阻止し続けた一派の動きがあぶり出されてくる。 ガン患者にとって常に誠実な医者であり続けた丸山千里は、巨大な利権が蠢く医薬品業界という伏魔殿の中では、あまりにも無力すぎた。丸山は、実に巧妙に仕組まれた罠にはまり、犠牲となってゆくのである。 「こんなことが許されていいのか」―医学界で今もそんな声が渦巻くガン治療薬・丸山ワクチンの不認可問題。一徹な職人気質の医学者によって生み出されたこの薬は、医学界の不条理な権威主義や官民の癒着の中で苦難の道を辿ることになる。患者を置き去りにした不可解な認可審議は、なぜ許されたのか。気鋭のライター・祝康成氏が医学界最大の奇談を解き明かす。 長嶋茂雄と丸山千里の、こんなエピソードがある。語ってくれたのは、生前の丸山と親交のあった研究者である。 「あれはたしか昭和47,48年頃のことでした。丸山先生の机の上に、長嶋茂雄の直筆のサインボールがドンと2箱、置いてあるんですよ。なんでも、膠原病に悩んでいた亜希子夫人に丸山ワクチンを差し上げたら、えらく喜ばれて、後日、サインボールを持ってきてくれた、というんですね」 つまり、丸山ワクチンは難病中の難病、膠原病にも効いた、という話になるわけだが、その効能のほどはともかく、サインボールの後日談が丸山の闊達とした人柄を物語る。 「丸山先生は患者さんに、おたく、坊っちゃんいますか、野球は好きですか、長嶋のサインボール、あるけどどうですか”と、どんどん配っちゃうんですよ。患者さんが“うちは子供、2人いるんですけど”と言うと“ああ、失礼しました。もう1個、どうぞ”と、もう長嶋サインボールの大盤振る舞いでした」 だが、この無欲で誠実で、患者に愛され続けた丸山は、丸山ワクチンという画期的なガン治療薬を生み出したがゆえに、医学界から疎まれ、非運の人、となる運命にあった。 丸山ワクチンと同じ免疫療法剤でありながら、昭和50年に認可されたピシバニールと翌51年認可のクレスチンが医薬品史上、最大のヒット商品となったのは、前回述べた通り。しかし昭和51年に認可申請が行われた丸山ワクチンは56年、厚生大臣の諮問機関である中央薬事審議会が不認可としている。そしてこの裏には、医学界主流派の露骨な“丸山潰し”があった。取材に当たった新聞記者が語る。 「クレスチンとピシバニールが認可された後、薬事審は急遽、認可基準を上げて、丸山ワクチンを弾いたんですよ」 従来の基準なら、丸山ワクチンは間違いなく認可されていたという。 「もともと、丸山ワクチンにいい感情を持っていない学者たちが、この基準を盾に、不認可にしたのです」 当時の流れを時系列に検証していくと、なんとも不自然な認可の形態が浮かび上がってくる。例えばクレスチンは、申請から認可まで、わずか1年しかかからず、しかも審議はたったの3回。ピシバニールも認可まで2年である。専門家に言わせれば「前例の無い異例のスピード」だという。 一方、丸山ワクチンは、51年の申請から53年にわたって計3回、厚生省薬務局から追加資料の提出を求められ、しかも資料提出の直後、今度は薬事審と厚生省に比較臨床試験までやらされている。その結果が56年の不認可とは、どう考えても丸山ワクチンを狙い撃ちにした、“苛め”である。厚生省は「新しい基準に沿ったまで」と涼しい顔だが、実はこの新基準には大きな疑惑が存在する。 当時、新たに認可基準を設けたのは、中央薬事審議会の抗悪性腫瘍調査会だった。 「この調査会の座長を務めた、桜井欽夫(よしお)・元癌研究会癌化学療法センター所長が疑惑の人物。桜井氏は、クレスチンの開発にも携わっており、審議会の委員として、認可に賛成している」(新聞記者) つまり桜井は、自分が開発したクレスチンを自分で認可したわけだ。同時に、もし認可されれば、クレスチンの手ごわい競合商品になったに違いない丸山ワクチンを門前払いした新基準も作成しているのだから、さすがに国会でも問題になった。昭和56年7月30日の衆議院社会労働委員会で、 「そういうことは信用できぬ、ということであれば、私は不適任だと存じます」 疑惑はまだある。丸山ワクチンを徹底して忌避したといわれる山村雄一・元大阪大学総長との関係だ。 「当時、文部省の『科学研究費がん特別研究審査会』の主査が桜井さんで、副主査が山村さんだった。55年当時で予算が18億円。この分配を2人は取り仕切っていたのです」(医事評論家) (噴出する疑惑) 「私は、丸山ワクチンとは何か、癌にどのような影響を及ぼすものかを2年間、徹底的に研究した。山村が一番潰したがっていたのは私ですよ。私が丸山ワクチンは効かない、と言わないから。どんな妨害があったかは言いたくもない。医学界のトラブルというのは生易しいものじゃないんだから。文部省の補助金分配にしても、いまやっていたら逮捕だろうね。文部省のパイの山分けをやっていれば、それは強いよ。ただ、私はそんなもの、一銭も貰っていなかったから関係なかったけどね。それまで山村に恩恵をこうむっていた人が、山村が“ただの水”と言ったらそれになびくのは当然なんだ」 丸山ワクチンを擁護するデータを出した研究者が、補助金をばっさり切られた、などという話もあるが、ともかく丸山が、山村、桜井という医学界の大物2人と対立する立場にあったのは間違いない。 薬事審のメンバーの1人もこう証言する。 「桜井と山村は非常に親しかったですね。彼らにとって、我々はチンピラみたいなものです。桜井は、初めから丸山ワクチンを不認可に持っていく姿勢だった。あれでは裏に何かある、と勘ぐられても仕方ありません」 さて、当の桜井欽夫は、今なお囁かれる数々の疑惑に対してどう答えるのか? 東京三鷹市の閑静な住宅街にある自宅で、88歳になる桜井は取材に応じた。「女房が死んで1人暮らしだから、この広さでも十分」と語る自宅は木造平屋建ての、こぢんまりとした古い家である。 「みんな大豪邸でも構えていると思うらしいんだよね。もう建ててから50年近くになるよ。敗戦記念建築って呼んでいるんだ。三鷹にも、さすがにこんな家はないからね」 歯切れのいい口調で語る桜井は、疑惑のクレスチンにまつわる、こんな話を披露する。 「右翼が騒ぎ出したことがあってね、クレスチンで儲けてけしからん、ということらしい。“街宣車で行くぞ”という電話があって、警察にも相談したけど、結局来なかった。この家を見て呆れたらしいね」 薬事審の新基準については「あれは丸山ワクチンが出てきたから作ったもの」と認めつつ、こう語る。 「あのとき、免疫の基準というものはこれでいいのか、という世論が起こってくる。それでインターナショナルな情報を集めて作ったんです。厚生省に、丸山ワクチンを認めない基準を作れ、と言われたわけじゃない」 だが、自らが開発に関与したクレスチンの爆発的なヒットも大きく影響した、という。 「クレスチンが馬鹿売れするから、大蔵省が“こんなに税金はつぎ込めない”と悲鳴をあげ、厚生省を攻撃したんだ。困った厚生省は調査会に任せちゃったわけだな」 早い話が、調査会は大蔵省と厚生省の意を汲んで、丸山ワクチンを不認可にする新基準を設けた、というわけだ。 しかし厚生省は平成元年、クレスチンとピシバニールについて「効果なし」の答申を出し結果的に1兆円もの医療費が、医者と医薬品メーカーの懐に消えている。丸山ワクチンは、まったく効果のない、この小麦粉同然の抗ガン剤のために認可を阻まれた、といっても過言ではない。 (猛烈な官民癒着) 「学問のレベルで言えば、山村先生は丸山先生なんて問題にしていなかったと思う。山村先生は結核菌の第一人者で、結核をやりたい人間はみんな先生のところへ行ったんだから。大きなグループがあって、研究費も方々から入って、私立大学の一研究者とは違うよ」 丸山を歯牙にもかけなかったはずの山村が、こと丸山ワクチンの認可に限っては、大いに注目し一貫して反対の立場をとっていた。 「山村先生は結核の専門家だから、実験の根本を詳しく知っている。スタッフも優秀だし多くの論文も書かれていたし玄人なんですよ。対して、丸山先生の論文は素人みたいなものだったからね」 「一人のお医者さんがいくら一生懸命研究してね、病理検査もしないで、癌に間違いないとか、それが治ったとかいうのをただ記載して出されても、ホントに信用していいのか分からないでしょう」 医学界の大御所から見れば“一人のお医者さん”に過ぎなかった丸山には、ワクチンの製造元が弱小メーカーの「ゼリア新薬」という、致命的なハンディもあった。ゼリア新薬の元幹部が証言する。 「当時、癌治療薬の市場は年間800〜1,000億円と言われていました。うち、クレスチンが市場の半分に当たる500億円を売り上げています。うちは、丸山ワクチンがクレスチンの3分の1から4分の1でも売れてくれれば、と考えていました。そうなれば年間200〜300億円の売上げになる。これは裏を返せば、年間ベースで1億円の経費を使っても元がとれる、ということです。製薬メーカーは、ひとつの商品がヒットすればビルが建ったり、株価が2桁上昇することさえあります。ですから新薬を認可してもらうためなら、カネに糸目を付けず、人海戦術で接待します」 だが、この弱小メーカーのトップには、経費をばら蒔いて実を獲るだけのしたたかさが無かった。 「うちの社長は丸山先生に似て職人気質のところがありました。丸山ワクチンの申請にしても、我々が“厚生省の官僚や審議会の先生方に根回しをする必要があります”と、接待の必要性を意見したのですが、社長は“良いものは必ず認められる。そんなカネは必要ない”と。おかげで、経費を捻出するために領収書を誤魔化したりして、たいぶ苦労しました。うちは経費が使えなかった分、他社に比べると厚生官僚や薬事審の委員へのパイプが細い。つまり、ゼリアは他社に比べると、政治力は格段に落ちるのです」 では、本物の接待とはいかなるものなのか? ある中堅メーカーの幹部が、医薬品業界の想像を絶する内幕について、重い口を開いた。 「まずハイヤーで厚生省や病院まで迎えに行って、赤坂の料亭で食事をする。その後は銀座のクラブを2〜3軒ハシゴしてハイヤーで帰すのです。無論、ただで帰すのではなく、“今日は大変勉強になりました。これは奥様へのお土産でございます。それとお車代を”と言って、三越や高島屋で適当に買ってきた甘味類と、その下に現金を忍ばせる。少ないときで5〜10万円、多いときは50万円でした。しかし大手は常に50〜100万円渡していた」 そのほか、ここぞという時のスペシャルコースもある。 「クラブで飲んだ後、女性が5人くらいいるお店に行くわけです。そこで官僚や医者に“どのコにしますか”と囁くと、相手もニヤけながら“あのコがいいな”と指さすのですよ。まあ、売春クラブですね。当時で10万円でした。無論、ホテル代もかかりますから20万円。その前のクラブとかひっくるめると50〜100万円ですね」 (今も続く迷走) 「大手メーカーと昵懇になった先生が急にクルマを買い替えることはザラで、一戸建の大きな家や別荘を突然建てる人もゴマンといました」 圧巻はパーティである。 「大手がよく使う手は『新薬試験中間発表会』などと称して、帝国ホテルやニューオータニで200〜300人を集めてパーティを行うのです。しかし研究発表も立食パーティも形式だけ。肝心なのはその後。全員に帰りハイヤーを用意しますが、その際に車代を渡します。金額は少ないひとで10万円、多いひとだと数百万円は渡していましたね。うちも同じようなパーティを開催したことはありますが、ある先生から“やはり大手とは違うな”と厭味を言われたことがありました」 高級官僚の天下りポストも、大手はしっかり用意していた。 「ピシバニールを製造・販売していた中外製薬は昭和54年、厚生省の坂元貞一郎事務次官を副社長に迎えています。坂元副社長は、薬事審の委員の前で“おれの目の黒いうちは絶対に丸山ワクチンは認可させない”と言っていました」 一方、ゼリアの社内は、丸山ワクチンがなかなか認可されない現状を「山村先生と丸山先生は同じ研究をしているので、ライバル関係だから仕方がない」と考えていたと言うが、そのうち、こんな噂が飛び交い始めた。先の元幹部が明かす。 「山村先生が丸山ワクチンに対してあまりに酷いことを言うので、うちにも何か恨みでもあるのでは、とみんなで疑心暗鬼になっていったのです。当時、社内では“ある社員が山村先生の娘さんと婚約している”という噂がまことしやかに流れました。そんなコネがあるのなら何とかしよう、とみんなで該当者を探したが見つからない。そうこうしていると、今度は“その婚約は破談になったので、山村は丸山ワクチンばかりかゼリアも憎いのだ”と話が変わってきたのです。そこまでくると、我々もバカらしくなって、何もしませんでしたが」 他メーカーの、なりふりかまわぬ実弾攻撃に比べれば、なんとも呑気な話ではある。生真面目で誠実な医師の丸山と、融通の利かない弱小メーカーが組んだところに、丸山ワクチンの不運があった。 加えて、丸山の周囲にも、“宝の山”の匂いを嗅ぎ付けて、欲の皮の突っ張った人間たちがうごめくようになる。丸山と付き合いのあった大学教授が、こんな話を披露する。 「丸山ワクチンの製造は、丸山先生の取り巻きの人間たちによって、実に多くの製薬会社に持ち込まれているんです。第一製薬とか協和発酵、大鵬薬品にも行っている。大鵬薬品は乗り気になって“共同開発にするから、データを出してください”と伝えたら“1億円出せ”と言われたそうです。もちろん、丸山先生はお金のことなんか頭にない人でしたから、ご存じないですよ」 ひたすら、ガン患者のために、と孤軍奮闘した丸山は「認可を見るまでは死ぬわけにはいかない」と執念を燃やし続けたが、平成4年3月、90歳で亡くなった。 その9ヵ月前の平成3年6月、丸山ワクチンを濃縮した『アンサー20』が認可されている。しかし抗ガン剤ではなく、放射線治療の白血球減少抑制剤としての認可だった。「親父はもう寝たきりだったけど、“うーん……”と言ったきりで、うれしそうじゃなかったな。あくまでも抗ガン剤としての認可を待ち望んでいただけに、不本意だったのでしょう」(長男の丸山茂雄) アンサー20の認可で医学界の偏見はかなり軽減したとも言われるが、主流派による妨害は相変わらず続いている。 東京・丸の内で丸山ワクチンのシンポジウムが開催されたのは平成11年12月のことだった。患者家族の会の事務局長、南木雅子は準備段階でこんな体験をしている。 「主催を承諾してくれた産経新聞社に、癌研究会の理事が直接乗り込んで“丸山に関わるシンポジウムを主催するなら、今後、癌に関する取材協力は一切しない”と言ってきたのです。産経新聞は、広告やチケットを刷り終えていたにもかかわらず、慌てて主催を降りてしまいました」 丸山ワクチン迷走の終着点は、未だ見えていない。 |